人生の記憶のなかの最初の景色は何だったかと自問し、それをひも解いてゆくと、戦後当時の札幌の西の近郊、真駒内にあった進駐軍基地「キャンプクロフォード」の風景に辿り着くような気がする。小学校に入る以前の話になる。私の人生の記憶のすべての源がこの「札幌のなかのアメリカ」から始まっているのである。
旧陸軍の軽爆撃機の操縦士だった父親(毎晩酔うと、そう語っていた)が、この基地で大工・塗装系の職を得ていたことが縁だった。何度か、連れて行ってもらい、基地に入ったという記憶がある。ゲートで門衛にパスを見せ、、とこの時点で何か特権を持った日本人というような気分だった。
そして60数年近く経ったいまでも鮮明な衝撃として残っているのが、基地内にあった映画館。大きな映画館で、暗闇に目が慣れるにつれてさらに私を衝撃が襲った。客席には誰も居ないのに、映画が、淡々と、いや延々とか、上映されていることだった。
当時、テレビがまだ普及前夜で映画全盛の時代。映画館と言えば、東本願寺札幌別院前にあった「美登喜館」(市内に映画館のチェーン展開をしていた別当興行傘下にあった)。いつ行っても大入り満員で両脇のトイレの臭いが漂う、そんな二番館だったように思う。とにかく私にとって映画館といえばこの美登喜館。
そしてアメリカと日本の国力の差をこの二つの映画館を通して実感したのだ。幼心に「だから戦争に負けたんだ」と。
この真駒内基地がらみでさらに記憶を辿ると、藻岩山の中腹に「アメリカンスロープ」というスキー場もあった。アメリカ人専用としてではなく、私ら日本人が滑っても排除されることはなく、ロープ一本渡しただけのリフトも使うことができた。(もちろん無料)ただ、このロープは子供の腕力では斜面を上っていくのにかなり難渋した。
じつは進駐軍絡みで、もうひとつ大きな記憶がある。基地の将校が黒塗りの乗用車で我が家に遊びに来たことがあった。私の実家は、当時市電西線の12条電停近く、一軒の二階建ての家屋の各部屋に何世帯かが入居していたが、我が家はその家の玄関を入ってすぐの右側四畳半一間を賃貸していた。
日曜日、大柄の白人将校が奥さん同伴で、その四畳半の入口に立って、呆然と立ち竦んでいた。そして、また黒塗りの進駐軍の車が玄関前に横付けされているのを見たご近所衆が集まってきて、「何をやらかしたのか」的視線を向けていた。
その後、この将校夫妻が、部屋の中に入ったのか、入室を諦めてそのまま基地に帰ったのかはさすがに記憶にはない。しかしこの「我が家に進駐軍がやってきた」という衝撃的な情景は鮮明に私の裡に残っているのだ。
もう一つ。高校時代、友人に連れられ、宣教師が主催する英会話の勉強会に通っていた。教会の隣にあった宣教師の自宅リビングを開放して月に何回か夜に開かれた。このリビングがテレビでよく見ていた「うちのママは世界一」、「パパは何でも知っている」の舞台として出てくるようなアメリカの中間層のリビングルームだった。大変美しく、部屋の中に何やらいい匂いが漂っていたことも、生徒側にキレイなデパガールも参加していたことも、レクチャー後に美味しいクッキーとコーヒーなんかが出てきたこともあるし。
いずれにしても幼少時から少年期にかけてのアメリカ体験がその後の人生において、アメリカへの憧憬を形作って行ったことは間違いない、と自らを分析しているのだ。
旧陸軍の軽爆撃機の操縦士だった父親(毎晩酔うと、そう語っていた)が、この基地で大工・塗装系の職を得ていたことが縁だった。何度か、連れて行ってもらい、基地に入ったという記憶がある。ゲートで門衛にパスを見せ、、とこの時点で何か特権を持った日本人というような気分だった。
そして60数年近く経ったいまでも鮮明な衝撃として残っているのが、基地内にあった映画館。大きな映画館で、暗闇に目が慣れるにつれてさらに私を衝撃が襲った。客席には誰も居ないのに、映画が、淡々と、いや延々とか、上映されていることだった。
当時、テレビがまだ普及前夜で映画全盛の時代。映画館と言えば、東本願寺札幌別院前にあった「美登喜館」(市内に映画館のチェーン展開をしていた別当興行傘下にあった)。いつ行っても大入り満員で両脇のトイレの臭いが漂う、そんな二番館だったように思う。とにかく私にとって映画館といえばこの美登喜館。
そしてアメリカと日本の国力の差をこの二つの映画館を通して実感したのだ。幼心に「だから戦争に負けたんだ」と。
この真駒内基地がらみでさらに記憶を辿ると、藻岩山の中腹に「アメリカンスロープ」というスキー場もあった。アメリカ人専用としてではなく、私ら日本人が滑っても排除されることはなく、ロープ一本渡しただけのリフトも使うことができた。(もちろん無料)ただ、このロープは子供の腕力では斜面を上っていくのにかなり難渋した。
じつは進駐軍絡みで、もうひとつ大きな記憶がある。基地の将校が黒塗りの乗用車で我が家に遊びに来たことがあった。私の実家は、当時市電西線の12条電停近く、一軒の二階建ての家屋の各部屋に何世帯かが入居していたが、我が家はその家の玄関を入ってすぐの右側四畳半一間を賃貸していた。
日曜日、大柄の白人将校が奥さん同伴で、その四畳半の入口に立って、呆然と立ち竦んでいた。そして、また黒塗りの進駐軍の車が玄関前に横付けされているのを見たご近所衆が集まってきて、「何をやらかしたのか」的視線を向けていた。
その後、この将校夫妻が、部屋の中に入ったのか、入室を諦めてそのまま基地に帰ったのかはさすがに記憶にはない。しかしこの「我が家に進駐軍がやってきた」という衝撃的な情景は鮮明に私の裡に残っているのだ。
もう一つ。高校時代、友人に連れられ、宣教師が主催する英会話の勉強会に通っていた。教会の隣にあった宣教師の自宅リビングを開放して月に何回か夜に開かれた。このリビングがテレビでよく見ていた「うちのママは世界一」、「パパは何でも知っている」の舞台として出てくるようなアメリカの中間層のリビングルームだった。大変美しく、部屋の中に何やらいい匂いが漂っていたことも、生徒側にキレイなデパガールも参加していたことも、レクチャー後に美味しいクッキーとコーヒーなんかが出てきたこともあるし。
いずれにしても幼少時から少年期にかけてのアメリカ体験がその後の人生において、アメリカへの憧憬を形作って行ったことは間違いない、と自らを分析しているのだ。
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