2017年4月10日月曜日

ナパの銃器店にて

 パロアルトで仕事をしていたときの休日、知人と連れ立ってナパにワインをテイスティングに行こうということになった。パロアルト市街から北東方向に向かって84号線に乗ってサンフランシスコ湾を渡って北上するルートで小一時間くらいではなかったか。
 ナパ市内で昼食を取り、車まで戻る途中、銃器店が目に入り、一度冷やかしに入ってみようと衆議一決し、店の中に入った。銃器店見学は、後にも先にもこの経験が一度あるだけだ。

 店の中は、当然ながら本物の銃器類が、ピストル系から軽機関銃系まで豊富に並んでいる。これはこれで圧巻であった。アメリカの、しかもナパという田舎町であるので、日本で言うと、ちょっと小ぶりのスーパーほどの面積を有していた。
 ちょっと意外だったのは、本物の銃器類以外にモデルガンが相当な面積を割いて陳列されていたことだ。護身用に銃器を調達するという本来の目的以外に、日本人が観賞用に刀剣類を蒐集するということがあるように、アメリカ人も銃器類にひとつの機能美を求め、蒐集する人もいるのではないかな。





2016年12月19日月曜日

アマゾンとローソンの実証実験をTVで観て

「アマゾン・ゴー」というコンビニ型の試験店舗での実証実験を、アマゾンがシアトル市内で始めたことがTVで報じられた。入店時のスマートホンをゲートにかざしてのログインから陳列棚から商品をピックアップして、自動精算(その場での精算ではなく、アマゾンアカウントでのクレジット決済、と推測)、店舗外へのログアウトまでが簡単に紹介されていた。
 近くのセブンイレブン、昼どきに行こうものなら、レジ前に10人近くは簡単に並んでいるという煩わしさを考えれば、そうとうに便利になりそうな期待というか、予感はする。ひょっとすると次世代のコンビニ革命はアマゾンが担うのではないか、と。
 ネット記事によると、AI(人工知能技術)、画像認識技術、センサーフュージョン(複数のセンサーからデータをインテリジェントに組み合わせる技術)などの複数の要素技術を駆使したアマゾンの独自開発による。

 一方、ほぼ同じ時期に、ローソンが経産省の支援を得て、パナソニックとの共同開発で無人レジシステムの開発中と、アマゾンの次世代型コンビニと対比させる形で報じられた。両者の対比を見て、「アマゾンに敵うわけがない」というのが率直な感想だった。

 まず、ローソンから。いまの実店舗ローソンから単にレジ要員をはずしてその部分を自動化しただけ。19世紀から描いた21世紀を見ているような、そもそもの「革新化」のレベルが極端に低いように見えた。
 そもそも「客側にストレスなく購入させる次世代型コンビニをどう構想すればよいのか」という本質的な議論があったのか、なかったのか。いや集団の議論というより、創造力をもったプロジェクトマネージャーが存在しているか。

 日本型のこの種の「次世代型」実証実験にありがちな、国の主導のもと、複数の企業から集められた「ふつうの技術者」たちによる多数決の集団開発体制、ここでは責任の所在もおぼろげになりがち。私の裡にはこの種の諦念とでもいうべきものが長い時間をかけて蓄積されている。
 ニュースを見ていて、この諦念を打ち破りそうなものを垣間見ることができなかった。ローソンの方のシステムがグローバル化することはほとんどないだろうし、日本のあるローカルで寂しく実施され、やがて消えていくような気もする







2016年11月23日水曜日

カタパルト・フェチ

 マニアックな話になるが、アメリカの空母にスチームカタパルト(蒸気発艦装置)が装備されたのは1942−1946年に建造されたエセックス級の空母からで、その後本格的運用に入った。

 そして現在はニミッツ級の原子力空母でこれまで40年近くの歳月をかけて10隻ほどが建造された。しかしニミッツ級空母はここで終わる。
 2009年に建造が開始され、2013年に進水、その後艤装を経て、試験航海を重ね、2016年9月に海軍に引き渡されたと見られているのがジェラルド・R・フォードである。この最新型空母からこの一番艦の名を取って「ジェラルド・R・フォード級」になるのだ。バージョンアップされる主な仕様は何か?スチームカタパルトではなく、電磁式カタパルトが導入されるということなのである。(※二番艦「ジョン・F・ケネディ」はすでにニューポート・ニューズにて建造中)

 いずれにしてもこの電磁式(リニアモーター式)カタパルトは、まもなく旧式になろうとしている蒸気式をベトナム戦争や、イラクのクウェート侵攻やらイラク、アフガニスタン侵攻での多くの実戦を数十年近く経験した上での「動力全面的入れ替え型」であることに間違いはない。
 この発艦装置は、乗用車であれば数百メートル吹っ飛ばす威力を持つとされているが、有事になれば分刻みでの艦上機の離艦を可能にする「スグレモノ」で、故障の許されない有事への耐久性も証明済みだ。

 じつはこのカタパルト、アメリカ海軍独自のもので、中国、ロシアはもちろんのこと、英米仏などの空母を所持する同盟国に対しての技術開示も一切なされず(もともとはイギリスで開発され、アメリカが技術供与を受けたものであるにも関わらず)、アメリカ海軍の空母のみにて成長進化を遂げてきたのである。

 中国がウクライナから旧ソ連時代の「ヴァリャーグ」を買い入れて、大規模改修を施し、中国海軍一番艦空母「遼寧」として就航させたが、発艦装置はソ連時代そのままのジャンプ台方式である。舳先に向けて甲板を傾斜上向きにして離陸時の揚力を稼ぐ、あの方式そのまんまだ。
 余談になるが、色ごとに役割を与えられた甲板員の、アメリカ海軍空母そのまんまのパクリの動作は、YOUTUBEでお目にかかることができる。あまりにも露骨なパクリで、私はこれを見たときに涙が出るほど笑ってしまった。(※ 映画「トップガン」で見たあの動き、そのまんまのパクリ)
 このように中国の海軍力はまだこの幼児段階にあるのは明らかだ。恐らくアメリカの空母の建造技術と運用力(アメリカ海軍はこの11隻の空母を中心にして「打撃群」艦隊を10編成を世界に展開している。一方中国はこの遼寧の他に二艦空母を建造中と言われているが、空母を中心とした攻撃艦隊の編成はまだ先のことだろう)
 中国は、この先100年経っても技術力、運用力においてアメリカに追いつけないと思っているのは、少し買い被りだろうか、。








2016年11月22日火曜日

#501のブランディングを考える〜いまこそ Made in U.S.A.を

 スティーブ・ジョブズが生前プレスカンファレンスでユニフォームのように常用していたリーバイス501XX、高円寺の古着屋で程度の良いヴィンテージものを買おうとすると数十万円近くの値がついているものもある。
 ただし、これらの超高値のヴィンテージ商品は、50、60,70,80年代にノースカロライナ州グリーンズボロに拠点を置くコーンミルズ社製のデニム生地Shrink-to-Fit(セルビッジ)を使用し、アメリカ国内で縫製された「Made in U.S.A.」である。(※2000年代の初期、バングラデシュ、フィリピンなどのアジア諸国に生産のすべてが集約されている)

 ドナルド・トランプが先般次期大統領に当選したことを知ったときに、頭にまず浮かんだのは「リーバイスの501の生産はアメリカ国内に戻すべきだ」という私の裡なる思いだった。トランプが公約した「国内に雇用と産業を取り戻す」政策の象徴的なサンプルになるような気がしたのだ。いまのアジア製に大きな問題があるわけではない。
 しかし、6,7年前に近くのダイエーでフィリピン製の501を2本買ってしばらく履いていたのだがけっきょく捨ててしまった。微妙な肌合いがヴィンテージものと違うような気がしたのだ。
 先入観でそう感じるだけじゃないの、という向きもあるかも知れないが、やはり微妙な差を感じることはいかんともし難い。

 商品のブランディングが大きな変革期にあるのではないか。いや、多分より大きく二極化してゆくのではないか。<価格追求型>と、<こだわり型>へと。後者のマーケティングに501は入るのは間違いない。糸にこだわり、生地にこだわり、縫製にこだわる。その積み重ねとして弾き出されたプライスに文句を言う者は出てこないだろう。
 1976年にスミソニアン博物館の永久コレクションに加わった501XXがほんとうの意味で復権するにはいま一歩、リーバイスのブランディング変革が必要だと思うのだ が、、。


2016年11月20日日曜日

サンフランシスコ国際空港のユーザビリティ

 成田を夕方に立つと九時間ほどでサンフランシスコ国際空港に到着する。入国審査と税関の手続きが順調であれば、小1時間ほどでメインホールに出ることができる。私は過去、何度もこの経路でアメリカに入国している。
 そして何度も利用を重ねるに連れ、この空港はほとほと感心し倒されるほど、旅行客にとって楽な導線が確保されているのに気づく。私の場合は、シリコンバレーへ向かうのでレンタカー移動の動線について書きたい。
 数週間分の大きな荷物をカートに載せ、メインホールに出る。出て右手に折れ、エレベータでモノレール乗り場の階に上がる。このエレベータ、容量が大きいので満員で待たされた経験はない。エレベータを降りるとそのままモノレールのプラットホームになっている。
 数分待つと電車がやって来て、カートごと電車に乗り込む。そして数分でレンタカービルに到着。カートを押してホームから一枚自動ドアを開けると、正面に主だったレンタカー会社の受付カウンターがずらっと並んでいる。日本で予約していたレンタカー会社のカウンターで予約していたフォードのフォーカスのキーを受け取り、ついでにオプションの携帯型カーナビも借りて、指定されたフロアの柱番号のトコロまで移動。ここでふたたびエレベータを利用して指定されたフォーカスが置かれた階へ移動。フォーカスのドアロックはされていない。後ろトランクに荷物を放り込み、エンジンをかけて出発。螺旋状のビルからの出口道路を何回りかすると、サンフランシスコ方向とサンディエゴ方向の表示版がある。

 旅の目的地はパロアルトなので、サンディエゴ方向にハンドルを切る、そして片道四車線の国道101号線に乗るのである。30〜40分でパロアルトの出口「University Ave.」に上ることができる。私がこの稿で書きたいのは、サンフランシスコ空港を出てから、レンタカービルを出るまでの導線である。
 感心し倒されるのは、この導線のどこにもストレス(=シームレス、段差がない)がないのである。待たされることも、カートを途中での放棄を求められることもなく、レンタカーのトランクまで押していくことができる。
 ※カート放棄を求められる成田:出国の場合(第二ターミナルだったか?)、パスポートコントロールを出た出国エリアに入ったところにカートが用意されている。機内持ち込み荷物がその時、ちょっと手土産荷物もあってあって多かったので、これは気が利くと、利用して十数メートル押し歩くと、係員のおっさんが突然眼の前に現れ、カート利用はここまでです、と回収される。舐めとんのかい、。だったら置くな。とひじょうに不愉快な経験をしている。

 成田でレンタカーを借りた経験がないので、自分の車を旅の間置いてある駐車場ビルへの導線比較になるが、ストレス無しとはまったくならない。まず駐車場ビルへ向かう渡り廊下のフロアにエレベータで上がるのであるが、まずこのエレベータがカートを押して入れるだけの十分な広さが確保されていない。とにかく狭いのである。だから一度で乗れた試しがない。地下からの導線もあって、ひどいときには二、三度待たされることも度々だ。そもそもこの空港を設計したときに自家用車を使った旅行客を主体ではないのだろうと思う。渡り廊下のエスカレータもゴム状でカートを載せるとどこか不安定なのも不快だ。

 導線設計という技術力で比較するとまだまだ彼我の力量の差は明白なように思う。









2016年11月14日月曜日

進駐軍基地「キャンプクロフォード」からはじまった私のアメリカ

 人生の記憶のなかの最初の景色は何だったかと自問し、それをひも解いてゆくと、戦後当時の札幌の西の近郊、真駒内にあった進駐軍基地「キャンプクロフォード」の風景に辿り着くような気がする。小学校に入る以前の話になる。私の人生の記憶のすべての源がこの「札幌のなかのアメリカ」から始まっているのである。

 旧陸軍の軽爆撃機の操縦士だった父親(毎晩酔うと、そう語っていた)が、この基地で大工・塗装系の職を得ていたことが縁だった。何度か、連れて行ってもらい、基地に入ったという記憶がある。ゲートで門衛にパスを見せ、、とこの時点で何か特権を持った日本人というような気分だった。
 そして60数年近く経ったいまでも鮮明な衝撃として残っているのが、基地内にあった映画館。大きな映画館で、暗闇に目が慣れるにつれてさらに私を衝撃が襲った。客席には誰も居ないのに、映画が、淡々と、いや延々とか、上映されていることだった。
 当時、テレビがまだ普及前夜で映画全盛の時代。映画館と言えば、東本願寺札幌別院前にあった「美登喜館」(市内に映画館のチェーン展開をしていた別当興行傘下にあった)。いつ行っても大入り満員で両脇のトイレの臭いが漂う、そんな二番館だったように思う。とにかく私にとって映画館といえばこの美登喜館。
 そしてアメリカと日本の国力の差をこの二つの映画館を通して実感したのだ。幼心に「だから戦争に負けたんだ」と。

 この真駒内基地がらみでさらに記憶を辿ると、藻岩山の中腹に「アメリカンスロープ」というスキー場もあった。アメリカ人専用としてではなく、私ら日本人が滑っても排除されることはなく、ロープ一本渡しただけのリフトも使うことができた。(もちろん無料)ただ、このロープは子供の腕力では斜面を上っていくのにかなり難渋した。

   じつは進駐軍絡みで、もうひとつ大きな記憶がある。基地の将校が黒塗りの乗用車で我が家に遊びに来たことがあった。私の実家は、当時市電西線の12条電停近く、一軒の二階建ての家屋の各部屋に何世帯かが入居していたが、我が家はその家の玄関を入ってすぐの右側四畳半一間を賃貸していた。
 日曜日、大柄の白人将校が奥さん同伴で、その四畳半の入口に立って、呆然と立ち竦んでいた。そして、また黒塗りの進駐軍の車が玄関前に横付けされているのを見たご近所衆が集まってきて、「何をやらかしたのか」的視線を向けていた。
 その後、この将校夫妻が、部屋の中に入ったのか、入室を諦めてそのまま基地に帰ったのかはさすがに記憶にはない。しかしこの「我が家に進駐軍がやってきた」という衝撃的な情景は鮮明に私の裡に残っているのだ。

  もう一つ。高校時代、友人に連れられ、宣教師が主催する英会話の勉強会に通っていた。教会の隣にあった宣教師の自宅リビングを開放して月に何回か夜に開かれた。このリビングがテレビでよく見ていた「うちのママは世界一」、「パパは何でも知っている」の舞台として出てくるようなアメリカの中間層のリビングルームだった。大変美しく、部屋の中に何やらいい匂いが漂っていたことも、生徒側にキレイなデパガールも参加していたことも、レクチャー後に美味しいクッキーとコーヒーなんかが出てきたこともあるし。

 いずれにしても幼少時から少年期にかけてのアメリカ体験がその後の人生において、アメリカへの憧憬を形作って行ったことは間違いない、と自らを分析しているのだ。








※真駒内基地内にあった映画館

※備忘録

https://en.wikipedia.org/wiki/11th_Airborne_Division_(United_States)